何故ガッコウで学ぶのか

この記事のあらすじ

・今の時代、ガッコウに行く必要はあるのか

・ガッコウに課金しなくてもいい時代だよ

・通信というのは時代感にフィットしているものだと思う

何故ガッコウで学ぶのか

 何故筆者は慶通で学んでいるのでしょうか。慶通で学ばれていらっしゃる方にはそれぞれバックグラウンドを持っています。今までなら慶通とは大人の方、特に学び直そうと考えていらっしゃったり、大卒の資格を取ろうと考えていらっしゃったりする方がほとんどだと思いますが、最近では高校卒業してすぐに慶通へ進学される方もいらっしゃいます。

 このことに注目してどうして慶通で学ぶのか、もっと慶通をはじめとする「通信制」に注目してほしいと思い、まとめました。

今の時代、学問にアクセスすることは本当に容易い

 はい。これは本当に実感できますね。笑 ググれば一発で何でもすぐに分かってしまう時代になりました。ネットで文献にアクセスできるし、欲しい書物が街の図書館や書店になくともAmazonでクリックするだけ買えるし、場合によっては家から一歩も出ずにレポートが書けることも可能な時代になりました。

 ネット環境で衛星授業のように講義すれば大学に行かずとも講義を受けることができるような時代です。でもどうして今の時代でもキャンパスに行って講義を受けることが必要なのでしょうか。


N高等学校 通学コース

 今話題になっているN高校の紹介動画です。ネットの利点を最大限に活用した新たな学び方を導入していますね。筆者も小耳に挟んだ程度であまりよくは見ていません。

 N高校では普通科のような受験に向けての学習もできるし、職業科のような専門技術に関する学習もできる。普通科に通っていた筆者にとってはとてもうらやましい話です。


水原先生授業風景動画

 「通信」に対してまだまだ偏見があるとは思います。残念ながら。だけど偏見もそろそろ終わるのではないかと筆者は思います。何故ならネット空間によって学問に容易にアクセスできるようになったから。別にガッコウに行くいかないに関わらず好きな時に好きな場所で学べるようになったんですよ。筆者は高校時代に1時間とか2時間片道にかけていたんですよ。それが0になるってすごいことだし、でもそれが当然な時代になるってことが「通信」での学びだと思います。

学費ってどうしてそんなに高いんだろう

 ショウガクキンモンダイって聞いたことありますよね。要するに借金です。借金。大学卒業して就職したのはいいけれど、ショウガクキンの返済で自分の首が回らないなんて方が急増していますよね。

 私大って学費だけで150万とか200万とか行くし、国公立だって今は60万ぐらいはかかりますよね。そこに通学費とか下宿している人なんかは家賃とか生活費とかかかるし、いろいろ掛かりますよね。

 理系はいいとして文系ってそんな費用掛かる必要がありますかね、正直。自分たちのために払ってくれればいいけど所詮は建物を建て替えなど何か関係ないことに費やされていることの方が多いですよね。残念ながら。そんなハードウエアに投じるならソフトウェアに投じてくれって話です。

 別に前述した通りで文献はアクセスしやすくなったし、大学に行かなくてもネット講義してくれればいつでもどこでも好きなタイミングで学べるようになったんですよ。だからそんな学費を釣り上げてハードウエアに投じることはないんじゃないかなっていうのが筆者の感想です。

足利学校での学び方

足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されています。

 足利学校の創建については、奈良時代国学の遺制説、平安時代小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領上杉憲実(うえすぎのりざね)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元(かいげん)を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してからです。

 足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(1549)にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。

 江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年に幕をおろしましたが、廃校直後から有志による保存運動が展開されるなど、郷土のシンボル、心のよりどころとして足利学校の精神は市民の中に連綿として生き続け、平成2年の復原完成へとつながり、教育の原点、生涯学習の拠点として、新しい学びの心の灯をともしています。(足利市ホームページ「史跡 足利学校」よりhttp://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/

 


足利学校の歴史

 先日自転車で旅行していた時に足利学校を訪れましたが、そこでは自ら学ぶことこそ本来の学びであると書かれている看板を見かけました。

 足利学校で受け継がれてきた学び方こそ本来追究していく学問への姿勢なのだなって改めて気づかされました。入試のためだとか就活のためだとかでよいスコアを出すことは学問の姿勢ではないということなのです。

通信へに偏見

「通信」に対してまだまだ偏見があるとは思います。残念ながら。

 かという筆者もそういう偏見は持っていました。筆者が通っていた宇高*1には全日制とは別に通信制もありました。ただそこは「事情」がある人が通っているという偏見を持っていました。今思うと本当に頭の上がらないことで申し訳ないのですが、そんな偏見を筆者も持っていました。

 だけどそういう偏見もそろそろ終わるのではないかと筆者は思います。何故ならネット空間によって学問に容易にアクセスできるようになったから。別にガッコウに行くいかないに関わらず好きな時に好きな場所で学べるようになったんですよ。筆者は高校時代に1時間とか2時間片道にかけていたんですよ。それが0になるってすごいことだし、でもそれが当然な時代になるってことが「通信」での学びだと思います。

一慶通生として学問への向き合い方を問いたい

 前に書いた記事を貼っておきます。

gedankenfreiheit.hatenadiary.com

  大学って何する場かといえば学問を追求する場なんですよ。そしてコミュニティに触れあう場でもある。他にもいろいろ目的はあるけれどここでは割愛します。その2つってネット空間によって達成されてしまったんですよね。度々で申し訳ないですが。

 それは同時に今までのガッコウのスタイルを変えていかなければ、というよりもネットを活用したり巻き込んだりしたやり方を取り入れなければ時代の波に飲み込まれるよっていうことです。

 まだまだガッコウに対する信仰が厚い日本の人々ですが、もしガッコウに行かなくても稼げるようになったらガッコウは不要なものになるのでしょうか。話は脱線しまいますが。現にそういう方がいらっしゃるのも事実です。

 ネット空間でアクセスできるのではあればどうして直接足を運んで文献にアクセスしたり、人に会いにいくのでしょうか。

 これらの問いにどう立ち向かえばよいでしょうか。これには答えがないとおもいます。ですがこれらの問いにはこれからの時代ヒトはどう学問に向き合うべきなのかということを考える必要性が含まれると思います。

 ガッコウに行く必要性はなんなのか。書物や人に直接会う必要性とはなんなのか。これをしっかりと見据えたうえで学問に向き合う必要があるのではないのでしょうか。

 それらの答えに「通信制」という学び方には答えが含まれるのではと筆者は考えています。■

*1:栃木県立宇都宮高校の通称。栃木県有数の進学校で僕は2015年3月に卒業しました。