【慶通】何故、自分は学ぶのか

 学ぶということに関して色々定義があると思うが、僕は学ぶとは新陳代謝だと思う。新たなもの、概念を摂取することでアップデートしていく行為が学ぶことなのでは考えるようになった。

 

 学び方に関して思うのは幅と深さが足りないということ。年金の話だとか、教育の話だとか、世間を騒がしているけれど正直騒いでいる人はもっと具体的に何に対して怒っているのかを明示できるぐらい考えるべきだし、やはりもっと年金に頼らないように自分も含めて考えるべきだし、いろいろと思考と行動が不足しているんだなって正直に思った。

 

 義務教育は中学までだけど、多くの人たちは高校、大学へ進学している。そうであれば社会の問題に対して冷静になって直面し対処できるはずなのにどうもそれができていない。それは教育が不足しているのではなく、おそらく教育が直面する限界なのだと思う。

 何故義務教育があるのだろうか。それは子供たちに教育を施すことで国家をより発展するための投資でもあるし、大人になった時に自立して生きていくための手助けのためでもあるだろう。でもそれが機能していない。

 

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  前も書いたけど、ちょっと教育について考えるべきタイミングが今なのかもしれない。知識を詰め込めば社会が良くなる時代は過ぎ去ったというよりも訪れなかった。知識の量が変わったから子供たちは幸せになったとか豊かになったとか誰が考えたのだろうか。

 

 そうそう、慶應通信の学習、学びは浅はかでは許されないから結構ハードルが高いんですよ。結構辛いというか、安易に進めるとヤケドしてしまう。だけどそれは先生たちの願いというか、もっと社会に貢献できる人材を育成するため、あるいは学問はより深化させていくための基礎教育の面での拡充、あるいはトレーニングのためにわざと厳しくしているんだと思う。

 暗記しなくちゃいけない部分は多いけど、その先の発展分野を学ぶためにはどうしても暗記しなくちゃどうしようもないんだよね。教科書見ながらじゃどうしても話にならない。だから最低限の知識を叩きこんでくださいという先生たちのメッセージなんだと最近気づいた。

 

 慶應通信の宣伝チックになっちゃうけど、僕が慶應通信に籍を置いた分単位習得もそうだけど、きちんと学ぶのが義務なんだと思う。というよりも学びは新陳代謝である以上はこのように大人になっても学べる教育機関を大いに生かすべきだと思う。学ばないと腐っちゃうというか取り残される人間になってしまうから。■